長享の乱の概略」とは、長享元年(1478年)から永正2年(1505年)にかけて、山内上杉氏の上杉顕定(関東管領)と扇谷上杉氏の上杉定正・上杉朝良との間で繰り広げられた戦いである。文明14年(1484年)の足利成氏と足利義政の都鄙間和睦でついに 30年近くにわたる享徳の乱が終結した。しかし関東公方としてついに認められた足利成氏は関東全体にその権力を行使できる存在ではなく、古河を中心とした一政治権力へと変容してしまった。ただし、公方としての権威は高く、関東の諸勢力にはいまだに無視できない存在だったのである。一方関東管領だった山内上杉氏も、乱の最中で山内上杉憲忠、山内上杉房顕といった当主を若くして失い、さらに乱の途中で家臣の長尾景春が反乱を起こしたため、その権力基盤は大きく揺らいでいたのである。その一方でそれまで傍流に甘んじてきた扇谷上杉氏は太田道灌の活躍もあり大きく躍進した。ところが、である。文明18年( 1488年)7月26日に扇谷上杉定正は太田道灌に対して、上剋下、つまり誅殺を実行したのだ、主家をしのぐほどの太田道灌の飛躍ぶりを警戒したともいわれているが、理由は今のところはっきりしない。ところがこれがまずかったのである。
両上杉氏の争い、太田道灌の非業の死は関東の諸将に衝撃を与えた。そしてその機を逃さなかったのは、傍流である扇谷上杉氏の台頭を苦々しく思っていた、嫡流の山内上杉顕定であった。彼は太田道灌の遺児の太田資康が助けを求めて鉢形城にやってきたこともあり、扇谷上杉定正との対決姿勢に踏み切ったのである。越後守護である父・上杉房定の名代である実兄・上杉定昌と協力し、上野の武士たちを味方につけていく。一方扇谷上杉定正はこの姿勢に当然対抗。足利成氏の支援を受けることに成功したのである。そしてその援軍にはかつて上杉氏に謀反を仕掛けた長尾景春もいた。
そして長享元年(1487年)閏11月、白井城の上杉定昌が勧農城の長尾房清を攻撃。いよいよ戦闘に移る。これが長享の乱の始まりであった。長享2年( 1488年)には実薪原、須賀谷原、高見原と各地で激戦が繰り広げられていったが、扇谷上杉氏に足利成氏の息子・足利政氏が味方していたにもかかわらず、戦線は膠着状態へと移っていった。しかし、かつての享徳の乱と同様、両陣営の対立とは別の場所から膠着状態を打ち消す存在が現れてしまったのだ。そう、北条早雲こと伊勢盛時である。