- Amazon.co.jp ・本 (332ページ)
- / ISBN・EAN: 9784167502041
感想・レビュー・書評
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<u><b>答えを探す信者たち、語り方を探す人間たち</b></u>
<span style="color:#cc9966;">癒しを求めた彼らはなぜ無差別殺人に行着いたのか?オウム信者へのインタビューと河合隼雄氏との対話によって現代の闇に迫る</span>
『under ground』の方は読んだのだけれども、こちらの方は読んでいなかったので、『1Q84』をどう読むかということを考えたいと思っていたので読んでみた。
かなり長いので折りたたみます[more]
このインタビューにも、「under ground」同様、春樹の謙虚さ(彼の書く本の魅力的な主人公たちは、わがままだけれどもすごく謙虚でストイックだと思う。彼らが持っている謙虚さと同じような謙虚さ)が滲みわたっていて、インタビュアー村上春樹に対しての好感は、ある程度持った。もちろん、『under ground』とは違い、春樹が自分の意見をぶつけるということもあり、どことなく話をある方向へ持って行きたいという、彼の恣意的な部分もあって、『under ground』の時のインタビュアー村上春樹のように手放しで褒めるわけにはいかないけれど、今回は被害者ではなく加害者と向き合わなければならないという点において仕方がないかなと思う。(これは本人が最初に言及しているしね。)
で、肝心の中身の話。最初は、信者たちは、テレビで報道されていた感じと違うなという感覚。(本人たちもそう言っているけれども。もちろん、ここでインタビューされている人たちが教団の中で特異なだけだったという可能性も無きにしも非ずだけど)
とにかく、いろんな人がいるけど、信者たち(元信者も含めて)共通して言えるのは、“答え”が欲しい人ばかりだと言うこと。全ての疑問に対して、答えをくれる人を必要としている点だ。
元信者で今はオウムを徹底批判している人だって、「(オウムは)私の問いに答えてくれなくなった。陳腐な答えでしか返してくれなくなった。だからオウムは胡散臭いと感じるようになった。」というような言説でオウムを批判している人がいたけれど、なんだか、この人がオウムに関わるようになった根本的な原因はまだ解決されていないんだろうな、というか自分自身でも気づいてないんじゃないかと思ってしまった。
でも、この”答え探し”って別にオウム信者だけに限らないよな。そういう意味で、世間全体がなんらかの答えっぽいもの(本当の答えかもしらんけど)に食いつく傾向がある。というと、なんだか、近年の世の中の傾向みたいに思えるけれども、言ってみれば、世界なんてそうやって答え=真理を探してきて今までこうやって文明が築かれてきたんじゃないかと。じゃぁ、そんな感覚は人間だれしも持ってるんじゃないかと。
この事件を自分の中にある何かと重ねて考えて行かなきゃいけない気はする。でも、私たちとオウムは同じなんだなんて言う気なんて、さらさらないし、そんな風に言ってしまうことが本当に正しいことなのかどうかわからない。
ああ、どう考えればいいんだ。
とはいえ、『1Q84』を読み解く鍵はここにあるような気がするなぁ。個人的に。春樹はこの点に必ずこの点(信者が“答え“を過度に?要求している点)について言及し、“それは言葉に出さずに胸にしまっておくべきだ“と綺麗にまとめるかと思っていたら、そうではなかった。意外(でもないか?)。私もやはり“答え“を期待していたんだろう。少なくとも私は今の時点で、春樹がどんな答えらしきものを持っているのか、読み取れなかった。私自身もある一つの答えを持たないし、それを語るための物語も持っていない。
まぁ、だからこそ、引き続いて“語れないものをいかに語るか”“語れないものを語るべきなのか、語らないべきなのか”という問題が出てくるわけだけれど、現在、高村薫の『太陽を曳く馬』を読んでいるんだけれどもここにも同じような問題が潜んでいる。それについては、また『太陽を曳く馬』の感想か何かで書くとして。そういえば、高村薫も地下鉄サリン事件の前後の世界観みたいなものを問題提起する評論か何かを書いていたような…
さて、いよいよ何を語りたいのか分からなくなってきたけれど、何にしても、最後の河合隼雄との対談は、いらないと思う。面倒くさくなって流し読みしてしまった。私は、春樹自身の言葉で一人で熟成させた言葉が聞きたかった。一人で抱えるのは辛いことだと思うけどさ、河合さんと話したところで、毒にも薬にもなってないと思うんだけれども。うーん、まぁ、春樹一人で熟成させたそれが、『アフターダーク』『1Q84』と考えれば良いのだろうか。ムムム詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「こういう考えかたあってもいいじゃない」が許容される世界がオウムにしか無かった。
村上
「ファクトよりも真実を取りたい。世界は、その人が見た景色で成り立っている」
ストーリーとしての、オウム。
冷静構造の崩壊で「悪」がなくなったときに、
新しいストーリーの軸を持ってきた。
そしてそのストーリーそのものが、麻原を超えて暴走した。
自分の作ったストーリーの犠牲になるという構造。
既存の物語を飲み込む、新しい物語。
善悪ではなく、スケールとして。
組織は、悪を内在化する必要がある。
いわゆる「はけ口」がないと、その集約店の圧力が高まって爆発する。
外に向けて発散しようとする。ナチズム然り。
オウムと満州国の類似性。
テクノクラークを飲み込みうる「理想郷」。
本質的に欠如していたものとしての、「正しく立体的な歴史認識」「言葉と行為の同一性」。 -
やっぱりこの人は頭がとてつもなく良い
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2018年35冊目。
地下鉄サリン事件以降、村上春樹さんがオウム真理教(元)信者に対して行ったインタビュー集。
被害者側へのインタビューをまとめた『アンダーグラウンド』の続編という位置づけだが、手元にあったのでこちらを先に読んだ。
いま読もうと思ったきっかけはやはり、地下鉄サリン事件首謀者たちの死刑執行のニュースだった。
「過去の事件」では片づけられない。
村上春樹さんの言葉を借りるなら、オウムやあの事件そのものだけではなく、「オウム的なるもの」を考える必要があり、その危険性は、おそらく社会の中にまだまだたくさんある(増えている可能性だってある)。
相似的に、大なり小なり同類のことは今後も起こるであろうことを考えると、いわゆる「加害者」の側に属していた人たちの声を知る、ということの価値はとても高いと思う(もちろん、彼らが直接の実行犯であるわけではない、という前提を踏まえた上で)。
たった8人へのインタビューであることを考えれば、簡単に普遍性を見出していいわけではない、という大前提を持ちつつ、それでも入信する人たちのいくつかの共通点がうかがえたと思う。
●現世への失望感、物足りなさ、生きづらさを感じている。
●精神的達成や内面の開発に勤しむ。
●生真面目で完璧主義な人である場合が多く、自分なりの理論が通らないことには納得しない、逆に通ってしまえば傾倒する。
そんな人たちに対して、オウム真理教(他のカルトといわれるものもそうかもしれない)は、精神的向上の場を設けていたし、明解な答えをぱっと提供できる教義とグルが存在し、受け皿として機能した、と読めた。
「煩悩を抱く現世の人々を、私たちが引き上げてあげる」という選民思想感も、信者を繋ぎとめるものとして機能していたと思うし、そしてそれは恐ろしい殺人を正当化することにも繋がってしまったのだと思う。
教義に対して疑問を抱くことは自身の穢れやカルマのせい。よいことが起きればグルのおかげ。
そういう極端な思考に走ることで、徹底的に煩悩を取り除こうとして、同時に自己も失っていく。
空っぽになってしまったところに、教えが満たされ、狂信的になっていく。
一概に言ってしまうのもよくないけど、そんな流れを感じる。
巻末の河合隼雄さんとの対談では、生きずさらさを感じる人たちに対する受け皿が社会に用意されておらず、オウムが掲げる物語がその代替手段となってしまった、ということが語られている。
大きな社会の中で居場所を失った人たちが、小さな箱の中の単純明快な論理に吸い込まれていく。
対抗手段として、ネガティブな物語をも包み込む、もっと大きな物語を社会に準備することが挙げられていた。
そしてそれは、「完全に良い物語」なのではなく、「煩悩や悪を内包できる物語」であるのだと感じた。
「良い」の定義が「悪や煩悩の徹底的排除」になってしまえば、やはり善意に基づいた狂信的な悲劇を起こすことに繋がってしまうと思う。
許容可能な形で、どう煩悩と共存するか。
それを思うと、去年知った「ネガティブ・ケイパビリティ=性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」という概念は重要だと心底感じた。
「自分の可能性を考える」と言ったとき、そこには二つの可能性があるべきだと思う。
一つは、「きっと自分にもこんなことができるはずだ」というポジティブな可能性。
もう一つは、「状況によっては自分もこうなってしまう恐れがあるのではないか」というネガティブな可能性。
「悪い」と言われる側を一方的に断罪するのはとても簡単だけど、やはりそこにネガティブ・ケイパビリティを持って一呼吸置いて、加害者側の論理や正義に耳を傾けてみる余地は必要だと思う。
直接被害に遭われた方や遺族の方々にまでそんな風に言い切ることは難しいけど、少なくとも第三者的に見れる立場にある人たちにとっては。
早急な答えを求めないこと。煩悩と許容可能な形で共存すること。破壊的なものに吸い込まれる代わりとなる受け皿があること。
どれも簡単なことではないけど、大事なことが見える一冊だった。 -
地下鉄サリン事件から23年。23年経ったが、本書で村上春樹氏が本書で指摘した問題、つまりこの現実に馴染めきれない人をどうやって救うかということ、は解決するどころかますます深刻になってはいまいか? そんなことを考えさせられました。
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これはカウンセリングのようだなあ、と思って一巻から読んでいたら、後半河合隼雄先生が登場して腑に落ちた。テーマはとても哲学的。
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村上春樹さんだから手に取ってみたんですが、
「彼の小説が読みたい」という気分で、
「まだ読んでない本読みたい。」と思い、
この本がオウム関係のインタビュー集だということはうっすらどこかで知っていたのだけど、読んだことない彼の本があんまりない本屋で見つけた読んだことのない彼の本でして、
そのうっすらした記憶を抹殺して買ってしまった次第です。
やはりインタビューは気分ではなかったのだけど、
私は常日頃、
「自分が正しいと思っていることが、人の何かを損なってしまうほどのマイナスに働くことがある」と思ってはいるのだけれど、そんな大事なことを人は(少なくとも私は)すぐ忘れてしまう。でもその忘れていられる間だけが、「幸せ」を感じていられるんじゃないか、とも思う。
「幸せとは何か」なんて言ったら、きりがないのだけども、他者を顧みない、時に利己的にも見える「自分だけにまっすぐ心のベクトルが向いているとき」に、その「幸せ」ってやつは、感じられるんだと思う。
「あなたの幸せは、私の幸せ」、「人の幸福を願える幸せ」それですら、「私が幸せを感じる」ことに対しては、まっすぐ自分自身に向かう感情なわけで。
それが、客観的、社会的に見たら、「悪」に見えるとか、そういうのは、ちょっと別の次元の話なんだよなって、ことなのよね。うまく折り合いをつけていくのが、「人」なんだけれども、極論を言ってしまえば、そういうことなんじゃないかしらと、思う。
その「利己的な行動」の、客観的で、社会的な良し悪しが、この一連の出来事を生んだ。これは、もしかしたら、時代とか、国とか、場所とか、そういったものがちょっとズレただけで、全く違った印象のものになっていたかもしれない。そう思うと、本当に、怖くなります。決して、信者さんを肯定する発言ではありません。しかしながら、誤解を恐れずに言えば、「自分にまっすぐに向かう感情」に、正直にいたいとする自分自身の行動が、客観的かどうかを主観で判断する脆さや危うさを伴っていることに、我々は自覚的であるだろうかと、思ってしまったりもするのです。 -
オウムの信者に、少し触れることができた思いがした。
もちろん、これが全てではないだろう。
事件当時、思春期だった私は、テレビの画面を見つめながら複雑な違和感を覚えていた。その感覚を思い出した。
オウム信者の、社会から断絶しようとしているかのような、壁をはっているかのような空気に対する違和感。
一方的にオウムを悪者にして、突き上げようとする報道・大人の様子への違和感。
どちらに対しても違和感があった。
「でも、本来、オウムの人って、正しい道を望んで宗教に入ったんじゃないの?」と大人に問うてみたときの、あの苦々し気な戸惑いを含んだまなざし。
私が恐ろしいことを言い出したかのような、拒絶する空気。
どっちもどっちだ、おかしい。と、思春期の私は痛切に感じた。
もう、すっかりおばさんになってしまった今の私には、自分たちが必死で築き上げて、守ろうとしている生活を脅かすものに対する恐怖心は、痛いほどわかる。だから、いつの時代でも、犯罪や悪は徹底的に攻撃され、つるされる。
ただ、ちょっとでいいから、「でも、もしかしたら・・・」と、保留できるだけのスペースを、頭の中に作っておきたい、と思う。
全否定をしない、ほんのちょっとの可能性を、自分の心に、開けておきたい。
おばさんになった私は、そう思う。 -
「約束された場所で~underground2」。1998年の本。村上春樹。
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1997年に村上春樹さんは「アンダーグラウンド」という本を出しています。ノンフィクション、インタビュー本。
内容は1995年に起こった、「地下鉄サリン事件」の被害者の人々へのインタビュー集でした。
被害者の方々ひとりひとりを尋ね、会う。そして、その人たちの、「その日の体験」だけを聞くのではなく、どういう人生と暮らしを経てきた人なのか、という物語を聞きだす。
そういうひとりひとりが、どうやってサリン事件に遭遇したか。後遺症は。周りの対応は。その後の気持ちは...みたいなことです。
これが実に面白かったです。
村上春樹さんが狙いとして明言しているように、とにかく、「ある見方」ではなくて、「色んな見方」を放り出して読ませる。
それは、週刊誌やネットなどの短命な消費される「商品としての情報」とは全く違う豊穣な見方で「事件」を考えさせられます。ノンフィクションの醍醐味。
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で、「そうなると、加害者の側のことも聞きたい、知りたい」というのが、この「約束された場所で~underground2」。
つまり、オウム真理教の信者さんたち(元信者さんもいます)に、同じようにインタビューをしています。
どの人も、マスコミで名前が出たような、「実行犯」でもなく、逮捕もされていません。「地下鉄サリン事件」も、勿論テレビで報道で知った人たち。ただ、オウムの内側に居た人たち。
まあ単純に「どんな人がオウムに入信しちゃったんだろう?」という好奇心も多いに満たされます。
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当然ながら、というか。
どの人も、いわゆるバブル〜崩壊直後と呼ばれしあの時代に。大変に華やかで、多忙で、恵まれた立場であった人達…ではありません。
ほとんどの人が、少なくとも一度はオウム真理教の教えになびいて、「出家」してるわけです。
つまり、財産や家族や仕事とか、すべての社会的な関係をなげうって、身も心も教団に捧げちゃった。
それはすごいことで、ほとんどの人が、サリン事件、麻原逮捕、教団崩壊のあとでも、「オウムの教えの全てが悪くは無い」という気持ちが核にあります。
それに対して、村上春樹さんが相手を尊重しながらも、「なんでそう思えるのん?」という素朴なぶつけ方を時折します。相手が反論します。その反論は、正直、よくわからない。全ての意見、感覚が、「根っこのところで、なんでそういう前提を信じられるのか分からない」というぬめっとした感覚が残ります。アンダーグラウンド。
なんだけど、ひとりひとりが別段、狂信的な人ではない(なさそう)。
会社員が、「なんだかうちの会社、あの上司、絶対おかしいよなあ」と感じたり愚痴ったりしながらも、仕方なく流されて仕事をしている感覚と、似ています。
どこが違うのか?
これまたぬめっとした感覚が残ります。アンダーグラウンド。
そういう後味が、村上さんをはじめこの本を上梓した側の、狙いのひとつではあるんだろうなあ、と思います。
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闇を覗きこんだ感覚。
そして、その闇は自分たちの日常と、自分たちと、ぞくっとする近いところにある、僕たちの中にもある感覚。
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当然ながら色んな感想を持っていい本だと思います。色んな味わい方。
ラストに河合隼雄さんと村上春樹さんの対談が収録されています。
その中でもちょっと話にあがっていたのが、「家族」。
インタビューに出てきた方々が、正直ほとんど「まともな家族関係がなかったのかな?」とも思えます。
なんだけど、これもまた危険なのは、「ぢゃあ、まともな家族関係ってなに?あなたは自分の家族関係がまともだと、基準だと、デフォルトだと、なぜ傲慢にも信じられるの?サザエさんみたいな家族なんてどれだけいるの?上辺だけサザエさんなら、それが善なの?」という反論も瞬時に起こってきます。
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そしてもうひとつは、「なぜ?という思考、そして個人としての自由を放棄する幸福…幸福というか、楽な気分…」という感覚です。
これが怖い。
河合隼雄さんがふっと口に出していた、「まさに『自由からの逃走』ですね」。
自由であることが、逃走するほどまでに苦痛にならないためには。
家族であれ仕事であれ世間であれ、「程よい不自由」というのが存在することが大事なんだよなあ。と、個人的には思いました。
自由からの逃走っていうのは、ほとんどの場合が現象としては、「孤独」からの逃走、だったりするのではないだろうか。
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村上春樹さんの文章は、やっぱりとっても好きです。
小説ももちろん好きなのだけど、実は小説以外の方が、その文章の居心地の良さが際立つなあ、と思うことも多いです。
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あと、この本、惜しむらくは、インタビュー相手がちょっと少ない気がしました。倍くらいの人数を読めたら、また違ったオモシロサがいぶし出てきたのではないかなあ。
ただ、インタビュー相手を段取りするのが、被害者よりも大変だったでしょうから。まあ、欲張りなおねだりなんでしょうが。